2022/6/11
朝起きると気だるいので、布団の中で少し抵抗をする。昔の小説家は、女中の休める時間はこの間だけだと言っていた。曇り、少し晴れていたかもしれない。
大きく膨らんだリュックを見て、今日かと思った。うまく生きることのできなかった昨日との区別があまりない。カーキ色の靴を履き、同色のリュックを背負って家を出た。
電車の荷物をドアの端の窪みに置いて立っている。壁に寄りかかりながら三百年ほど前に書かれた紀行を読むと、電車に乗って空港を目指している自分を不思議に感じた。
旅は、家から目的地までのものではなく、目的地に着いてからのものに変わってしまったのかもしれない。道中を記述できないこともないが、この乗り物での移動は特別な苦労もなく過ぎていく。
快適になってしまった。過ぎ去る景色を懐かしむ隙間がなくなってしまった。私たちはこの速度を飼い慣らしているようで、きっと飼い慣らされている。
昼前、父と空港で会った。二人とも似たような格好をしていた。そのまま牛タン屋に入り、定食と生ビールを飲む。その後、飛行機に乗った。
私の左隣は小太りの男性で、携帯でドラマを見ながら、何度も数秒送りのボタンを押している。右隣の男性はサイトのエンジニアらしく、パソコンの画面にはたくさんの英数字が並んでいた。
飛行機は、雲の影響で時折激しく揺れた。飛行機が高くなるにつれて、体の自由が失われていく。少し気怠くて、眠い。
阿蘇くまもと空港に着くと、私と二十歳離れた従兄弟が迎えに来てくれていた。雨が降っている。父が助手席に乗り、私は後部座席に座った。
濡れた道を走る車の走行音、車体に当たる雨音、父と従兄弟の熊本訛りの会話をぼんやりと聞きながら、少し見慣れた田舎道を眺める。私はこの時間が好きだった。何の責任も主張もない子供の頃に戻ったような気がする。
家に着くと、人懐っこい小さな芝犬がいた。二ヶ月前に買ったらしい。そう教えてくれた叔父はすでにいくらか飲んでいおり、赤ら顔で笑っていた。
少しして墓参りをしてこいと、祖父と父と一緒に近所の墓地へ向かった。この辺りは人の少ない集落で、細長い小屋に扉が数個着いたものが墓地になっている。去年の埋葬は、扉を開けて骨壺を棚に置くだけで終わった。
扉の表には〇〇家という札、花瓶、コップ、線香入れ、蝋燭差しが置かれてこじんまりとしている。また、花はほとんどが造花なので、色褪せながらも満開に咲き並んでいた。
辺りを掃き、造花をビニール袋に入れて生花を供える。祖父に渡された鎌でいくらか雑草を抜くと、掠れた声で、帰るぞと言われた。
この家は農家なので、玄関を出て数歩歩いたところにトイレがある。男子便器の周囲に敷かれた尿の染みた広告紙と、強い匂いの芳香剤は十何年前から変わらない。この匂いを嗅ぐと、嫌悪と共にこの家に来たという感じがする。
玄関のすぐそばには粗末な犬小屋がある。中に座っている犬をじっと見つめると、ゴンと呼ばれる柴犬が出てきた。十五年ほど生きた老犬は、あまり目が見えておらず、後ろ足を軽く引きずっている。
この犬の代わりに、新しい柴犬の子供を買ったと叔父は言った。ゴンは、祖父に懐いており、祖父に少し似ている。目は、目脂が垂れたものが固まり、穴のない勾玉のような形をしていた。
誰にでも愛想と好奇心を振りまく子犬よりも、亡霊のように佇むこの犬の方が好きだった。
晩御飯には、刻みニンニクのたくさん入った鶏肉と刺身などが並べられる。発泡酒を少しずつ飲んでいると、笑顔の祖父にもっと飲めと言われた。叔父は、私の就職や結婚について執着している。
叔母に勧められて風呂に入った。橙色の豆電球の下で見る、水色の風呂桶にたっぷり溜まった緑色の湯が好きだった。
木製の戸板を、ヘアピンのような細く曲がった針金で鍵をする。着替えを置く棚には、きっちりと埃を纏ったコロンや整髪剤が長い間忘れられていた。隣に歯磨き粉を置くと、どこにでもある歯磨き粉が目新しい清潔なものに見える。
2022/6/12
二日目、仏壇のある座敷に父と布団を並べて眠っていると、祖父にまだ起きんのか、と何度か言われ、最終的にはカーテンを開けられた。七時頃に起きると、叔母は畑へ行き、叔父はテレビを見ていた。
ぼうっと支度をし、父と共に墓参りに行く。今日は十一時から祖母の一周忌の何かがある。この地にいると、隣にいる父が普段よりも頼り甲斐のあるものに見えた。
喪服に着替える。十時を過ぎると、徐々に親戚が集まり始めた。家の中をうろうろしていると、腰を曲げて風呂を洗いながら溜め息をつく叔母が見えたので、台所に溜まった食器を洗った。
すると、なんとかおばさんから、お客さんが増えてきたからお茶出した方がよかね?と言われ、適当にお茶を淹れて出した。作法も何も知らずに、年寄りの側にお茶を置く。彼らは私の存在が見えていないかのように、会釈やお礼をしない。
十一時、僧侶が来て一時間ほど正座をする。その後、車で移動して昼ご飯を食べたが、この家は玄関の鍵がないので香典のお金はずっと叔母が持ち歩いていた。
食後は解散となり、家に戻った人たちは皆、畳に横になった。家は、古い民家のつくりなので風通りが良い。窓のいくつか開いた家の真ん中で、うたた寝をした。
十八時、古い木製の勉強机と少し傾いた椅子の置いてある一畳ほどの小部屋に、白く温かい日が差している。朝と夕方の日は、本当の形が見えるようだった。畳に横たわっている自分の肌は白ばんでいる。
十九時、ふた部屋分のテレビの音が、追いかけっこのように反響して喧しい。しかし、畳の広い座敷はそれらを静かなものに変えていた。畳の色褪せた上に、淡い影が落ちている。
二十時、彼らの眠る時間。祖父は寝た。叔父もそろそろ眠るだろう。私と父と叔父は、居間でオードブルの銀の大皿を囲んでいる。昼間にたくさん食べたので食欲はなかったが、父の同級生が持ってきた唐揚げは美味しかった。彼らはいつでも昔話や近所の人々の話をした。
この場所は、明日にはいないと思うと危うげで心地良い。この歳でやたらに放浪していると、疑いに近い心配をされた。叔父と目が合えば、いい歳して結婚は、子供は、と言われる。仕事は理解されていない。
この土地、特に農家では、分かりやすい職業、分かりやすい富、子供や孫などがいること以外、その人にとっての価値はないように感じる(私が捻くれているのだろうか)。
また、長男が優遇される。なので、この家の三男の一人娘である私は、元より期待値を持たれていない。それにも関わらずこの様子なので、長男の子供でなくてよかったと思う。
この土地の年寄りは、人が何かを思想して行動するという考え方が身近ではないようだった。農家は、生まれたときからほとんど将来が決められている。そして、毎日働き続けてきた。
叔父に、あなたはずっと若いままではないよ、と言われた。何も言い返さなかった。
叔父は自分が糞尿の世話をしてやっているというので、子犬を布団の上に投げた。子犬が情けない声で鳴いたのを聞き、叔母が部屋に見に行くと子犬は足を引きずっていた。
翌日、動物病院に連れて行くと、五万円かかった(実際は五千円だった)と言うのを聞いて、叔父は言い訳をした。周りの人は叔父を責めていたが、父は少し肩入れをし、私は黙っていた。
いつから彼はこんなふうになってしまったのだろう。叔父はもう少し人間らしい人だった記憶がある。
父が言うには、一年ほど前に脳梗塞で倒れたことが原因で怒りやすくなったらしい。叔父が犬を投げる前までは、菓子パンを口の中で崩したものを口移ししたり、米焼酎を口移しし、再び子供ができたと嬉しそうに笑っていた。
二十一時、高台にある畑に向かう。街灯の光から離れると、足裏で柔らかいものを潰す感覚があった。次に、梅の実の熟れた匂い。
そうして歩き続けると徐々に目が慣れ、暗闇にぼんやりと形や色が浮かび上がった。空には薄い雲に覆われた月が出ている。東京では、よく月のことを忘れてしまう。
次の一歩に確証がないので、ゆっくりと歩いている。深く息を吸ってみても、私の体は変わらない。ふと、真っ黒な畑道に呑み込まれる思いがした。私は何の目的で歩いているのだろう。
遠くには黒い木々が立ち並び、甲高い虫の音が響いている。足を止めると、体の輪郭がぼやけていた。この暗闇には、確かなものが存在しない。
体の境界を失うと、その中に収まっていたものを忘れてしまうような気がした。私は、獣より何よりもそれが恐ろしいと思って道を引き返した。まだ五分も歩いていない。目的地があるというエネルギーは、不思議なものだと思った。
百合と線香が香る仏壇の前に、父と布団を並べている。二十二時には、父と襖を挟んだ先にいる祖父の鼾が聞こえた。父の鼾は時折小さくなったりするが、祖父は様々な音と間隔の鼾をする。祖父の骨張った体は、まるで大きな楽器のようだ。
いつのまにか眠っていた。誰かが居間の方で動いている音がする。
2022/6/13
三日目。午前四時、叔父が起きている音。五時過ぎ、父が先に起き、その後私が居間の方に行くと、机の上に缶ビールが四本置いてあった。六時には二缶分ほど空く。今日は従兄弟と釣りに行く予定があったが中止になった。
降り続ける雨のせいで、できることがない。私は畳んだ布団に寝そべり、携帯を触っている。その傍で、祖父が仏壇の前でお経を読んでいた。出てけと怒られないので嬉しい。
昨日は祖父に、郵便局の男と結婚して、両親の家の隣に家を建てろと言われた。
午前七時、祖父が飯食えと言ってお椀に味噌汁を注いだので、茶碗にご飯を盛った。高菜と明太子が美味しい。食後、私が食い荒らしたお菓子のゴミと、父と叔父が飲んでいたビールのコップを祖父が片付けていた。
昼頃になり、私はレンタカーを借りるため、家を出た。別れはいつも悲しい。お金を貰い、一言、二言、言葉を交わした。毎回、これが最後の別れだと思わされる。
雨が降っている。私は、レンタカーに乗って阿蘇を目指していた。阿蘇は、噴火活動によってつくられた山と平地がある。
実家のある益城町から、あまり景色の変わらない田舎道を通る。道路の脇に見えた用水路には、溢れんばかりの水が流れていた。田植えの時期なので、雨でも水門が空いたままらしい。
阿蘇に入るという明確な区切りは分からなかったが、阿蘇の方が益城町よりも田植えの時期が早いので、近づくにつれて全ての田に稲が植え付けられていた。
外輪山の入口辺りで蕎麦を食べる。蕎麦は大根おろしが乗っていて辛い。駐車場に植えられていた枇杷の実をこっそりと頂いた。
蕎麦屋の近くにある数鹿流ヶ滝(すがるがたき)に向かう。ここは昔話で、健磐龍命(阿蘇大明神)がカルデラ湖となっていた阿蘇に田畑をつくるため、外輪山を蹴破った場所だと言い伝えられている。
それが滝になり、鹿が数頭流されたので数鹿流ヶ滝という名になった(諸説あり)。
滝は、降っている雨と共に膨大な水量を筒の様にして落としていた。ずっと前から絶えず流れ続けているのだろう。初めてそうした昔話を身近に感じた。
山は深い緑色をして、谷の深い間からは絶えず白い靄が生まれている。私は麓から姿を消している阿蘇五岳が気になったので、車で山道を登った。数メートル先を隠す霧と小雨。山から冷えた風が吹きつけている。
夕方、移動や撮影などで冷たくなった体を温泉で温めた。白川などの水源の多い南阿蘇の湯に入る。地下のマグマから生まれたものに体が浸かっている。
私はそれらの作用を体感的に受け取ることしかできない。不思議なことだった。夜は、阿蘇駅の近くにある一軒建てのホステルへ行った。同じ宿泊客の男性にビール缶を貰った。
2022/6/14
朝五時頃に目覚めると、コンビニで軽食を買い、阿蘇山上にある草千里ヶ浜という草原へ行った。ここは三万年前の火口だというが、そう信じられないほど穏やかだった。山の裾に草原が広がり、馬が数頭放牧されている。
普段は景色の良い人気スポットだが、強風と雨のせいで観光客は駐車場から離れなかった。私は雨具を着てカメラを持ち、誰もいない草千里を歩いた。
ここには二つの浅い湖の様なものがある。雨のせいでそれが広がり全体がぬかるんでいた。水溜まりと草と家畜の糞が続く草原を、何の目的もなくふらふらと歩く。
カメラを持つ指先は徐々に熱を失い、防水加工した靴も濡れていった。雨具に当たる軽やかな音を聞きながら、広い高原に消されてしまわないよう、口で息をする。何故か少し焦っている。体が必死に熱を保っていることが分かる。
車に戻り、南阿蘇の温泉に入る。昨日と異なる、硫黄の温泉だった。濡れて疲れた身体が徐々に解けていく気がした。今日浴びた雨が、いつかここへ繋がっていくのだろうか。
夕方は、田んぼを歩いた。働いている人は皆帰り、田は静かに山の深い碧色を映している。
夜、昨夜飲んだ男性ともう一人と共に、酔った勢いでスナックに行った。阿蘇駅から徒歩五分ほどの、真っ暗な道に小さな飲み屋街があった。
店内は地方によくある粗雑なもので、中年の夫婦がカラオケをしていた。テーブル席には三人の中年男性たち。店員は、年のいったフィリピン系の二人組だった。カウンターに座って、カラオケなどをして適当に過ごす。夫婦が歌うものは、全て知らない演歌や祭りの曲だった。
2022/6/15
朝起きると、完全な二日酔いだった。とりあえずご飯を食べようと、近くの弁当屋で弁当と味噌汁などを買って車の中で食べる。気分が悪い。恐らく、スナックで出された濃いハイボールのせいだった。
宿に戻ると、昨晩スナックに行った男性が煙草を吸っていたので、適当な挨拶をした。彼は今日鹿児島に行くらしい。私は自分の二段ベットに戻って寝た。
起きると十一時前だった。良い天気。出かける準備をすると、鹿児島に行く男性はもう出発しており、もう一人の男性はまだ眠っているらしかった。
私は別れ際にやり取りすることが苦手なので、ホステル特有のひっそりと別れる感じが好きだった。彼らの名前は知らない。
山に登る準備をして、草千里ヶ浜の駐車場に車を停める。草千里では観光客がのどかに散策をしていたが、昨日より魅力的じゃなかった。
誰もいない舗装された道を歩き、阿蘇山の登山口に出る。ここは、昨年起きた噴火の影響で徒歩以外の道を閉鎖していた。ひっそりとした道を進むと、老いた警察官に、黄色いマークが登山道です、と言われる。そういえば登山届を出し損ねた。
登山道は、周りに灌木と小さな草が生えた砂利道だった。このルートは火口付近を迂回するものなので、ガスの沸き立つ火口には近づけない。
しかし、登るにつれて火山ガスの硫黄臭が強くなる。少し気分が悪くなったが、朝から続く二日酔いとの区別がつかなかった。
山頂からは、砂千里ヶ浜という火山灰の黒い砂浜が見えた。荒涼とした大地は遠い惑星のようだった。道を進み、山の端まで歩く。そこからは他の山へと続く滑らかな下り坂や阿蘇の平地が見えた。
目の前にある細長い草が見渡す限りに続き、風に揺らされている。遠くにいくほど、風の揺れが大雑把なものになって徐々に見えなくなった。
ふと、大きめの鳥が近くに降りてきて、また空高く飛んでいった。鳥は、上空の強い風に煽られ、私が苦労して登ってきた山道も、その何倍も険しそうな山もふらふらと乗り越えていく。
そうして黒い点となった。そんな姿に呆気に取られ、下山をする。
ぼうっとした頭で道を歩いていると道を間違え、また違う山を登っていた。引き返すのも面倒だと、きつい坂道を歩き続ける。
すると、森がひらけ、山頂の草原地に続く道が見えた。雲か霧が強い横風に流さながらも、行く手に立ちこめている。そのまま帰れないような気がしたが、それも悪くないと思った。
歩道を外れ、草原の中を歩いてみる。横には、壁のように反り立った杵島岳。前方の岩の陰から雌鹿が飛び出した。岩は、平原の中にぽつりと存在し、頭上には鹿の角のような枝を何本か生やしていた。何となく、この地に古くから在る守り神のような感じがする。
それを眺めていると、徐々に雲が流されていき、辺りに太陽の光が差し込んだ。荒々しい岩肌に張り付いた草たち。遠くの平地に二匹の鹿の姿が見えた。
街へ降りた。帰り道に立ち寄った喫茶店は埃臭く、ゲーミングチェアらしい物が散乱して、誰もいなかった。声をかけるのも億劫なので、すぐに車を出してコンビニに入る。
アイスコーヒーを買って煙草を吸いながらぼうっとしていると、駐車場から阿蘇山がよく見えた。山の靄は手元の煙のようにゆらゆらと上昇しては、谷間から生まれ続けていた。
上空の雲と区切りのない濃い霧。風の向きによって、時折少し晴れる。私は、先ほどまであの中にいたことをすっかり忘れてしまっていた。
気高く山に寄り添う白靄は、私の体を通り抜けた空気だった。それは肌に纏わりつき、風景から私を包み隠していた。足元の揺るぎない山脈。それらは少しずつ形を変えて、この地を形成している。
2022/6/16
六日目は、体が疲労し、消化器官の働きが悪かった。その証拠に唇の端に出来物ができている。しかし、山に向かう衝動が目を覚まさせて、五時前には宿を出た。
コンビニで珈琲とうどんを買って、山のカーブを登る。適当に車を停め、ごつごつとした火砕流の跡を見ながら無理矢理うどんを食べた。食物によって体を起こしてみようとするが、美味しく感じず、体も覚醒しなかった。
車で山頂の手前まで行き、鳥帽子岳を眺める。登ってみたいが体力がない。登ってきた道を少し降りて阿蘇の街を眺め、適当な放牧地の前に車を停めた。シートを倒して目を閉じる。
三十分ほどの浅い意識の中、ゴッゴッと物同士がぶつかる音がしたので体を起こした。すると、眠るまでは遠くにいた馬たちが、目の前の柵まで迫り来ていた。
物音は、馬が足や尻などの痒いところを木の柵に擦り付ける音だった。肉付きの良い雌馬が、長い尾を揺らしながら太腿を木に当てている。肉と木が当たる度に、波紋のように皮膚が揺れた。この馬が何用のものか分からないが、私は馬刺しの色を思い出した。
ぼうっとした頭で、ミルクロードと呼ばれる北の外輪山を走った。展望台に止まり、山の裾に広がる巨大なカルデラを眺める。街は雲とも靄とも言い難いものに覆われ、山々の間にひっそりと佇んでいた。
レンタカーの返却時間まで三時間ほどあるので、少し遠回りをして菊池渓谷に行った。朝八時の渓谷は誰もおらず、私は薄暗い空気を目一杯に吸う。
木々の茂りと川から生まれる水は、私の歩く小道まで溢れているようですぐに体が汗ばんだ。ここは綺麗に整備されているので、あまり気負わずに歩くことができる。その余韻のままゆっくりと車に戻ると、レンタカーの返却予定時間を過ぎてしまいそうだったので、急いで山を降りた。
二日前に買ったライ麦のパンを口に入れながら、目の前の標識や道路に集中してハンドルを回す。法定速度を超えた風景はあまり意味も持たなかった。
無事にレンタカーを返し、気の良いおじさんに空港まで送ってもらった。飛行機は二十時発のものだったので、コインロッカーに荷物を入れ、バスに乗る。バスは夏の格好をした人々を乗せ、ゆらゆらと市内へ向かった。
繁華街らしいところで降り、近くの蕎麦屋に入る。博物館に向う。先ほどの阿蘇とは打って変わり、都市特有の熱の篭った風が吹いている。私は日陰を探して、熊本城の水堀沿いを通り、アパートやビルの裏側を歩いた。
博物館は、土地の成り立ちを丁寧に教えてくれた。朝鮮との交流や権力を示したとされる鏡のこと。最も印象的だったのものは、肥後熊本藩初代藩主である加藤清正のことだった。
時代と共に移り変わる信仰の解釈がとても面白いと思った。良いも悪いも、死んだ人に押し付けて団結していく人々の姿を見ることができる。
私も死んだ人の書いた本が好きだ。解釈、対話、言い訳のいっさい全て、死んだ人間の栄光を借りて一人で広げることができる。
その後は、暑い日差しを浴びながら、熊本城の周りを少し歩いた。八年前に起きた熊本地震の影響で、所々の石垣は未だ崩れたままだった。加藤神社に参拝し、清正公のことを想う。
死んだ人間に対してこうした建物が存在し、現代においても人々が日々参拝していることは不思議だった。皆がこの地の歴史と、清正のことを知っているわけではない。散歩や観光の名の下、寺や神社を気軽に訪れる感覚は、失ってほしくないと思った。
夜の飛行機で肉付きの良い赤子が泣いている。その声が、刺激に分別なく反応する動物のようなので、いつの間にか飛行機の刺激に慣れてしまった自分の体を思い出した。小さい頃は飴を舐めたりして気圧の変化に対応していたが、今は特に何もしていない。
また、飛行機に乗るのは苦手だが、毎回その事を忘れ、搭乗三十分ほどで思い出す。赤子は抑えられない泣き声に疲労し、時折枯れがれに咳をした。
赤子の泣き声は、注意せずとも気が疲れる。そういう体の仕組みなのだろう。飛行機が安定すると、赤子は乗務員の誘導によって家族と共に後方へ移動していった。
飛行機に静寂が戻る。しかし、一人ずつの沈黙や、時間をやり過ごす工夫を含む人為的な静けさだった。
眠って起きると、耳が酷く痛んだ。どうにかしようと欠伸をする。ピキピキと何かが捲れるような音が鳴り、少しして飛行機は着陸した。
コメント