2022/6/6 掃除の考察
三日連続、五時頃に起きてバイトに行き、十七時頃に家に帰った。三日目の夜は十二時間以上眠ってしまった。疲れるみたい。
掃除のバイトが慣れていくにつれて、頭を使わなくなる。過去に経験した運動を反復しているだけなので、体が簡単に動くようになるらしい。それが、この場所への貢献や忠誠なのかもしれないと感じ始めて、面白いと思った。
ただ体を動かしているだけなのに、少し自信に似たようなもの、誇りのようなものを形成しようとしている。何だか人間としての正しい反応のようだった。大変な仕事や作業に対して、自分を壊さないために心持ちで自身を納得させる。
姿勢、服装、仕草など、崩してはいけないことを保ち、自分は真っ当な人間の振りをする。組織に馴染もうとする。ごっこ遊びのようだ。
雑草を抜くと、たまに蟻の巣を一緒に引き抜いてしまう時がある。雑草が栓のようになっていて、引き抜くと同時に蟻が無数に地上へ湧き出る。蟻は、水のように一気に溢れる。ごめんね、と塞いであげることもできない。
また、雑草の根を取る際に少し乱暴に土の中に手を突っ込むと、ミミズを潰してしまう時がある。それもこれも、どれも手には感じ取れない感触なので、数多の生き物を崩してしまった実感を得ることができない。
徐々に何かが危うくなっていくのを感じる。私は、人間と植物、虫との戦場の最前線にいるのではないかと思った。目の前の地面が急に複雑なものに感じる。
熱中症を怖いと思っているが、名前のせいであまり怖く感じない。熱死病にしたほうが良くないだろうか。
また、人間の体は歳をとる度に温度を感じづらくなるのは面白いと思った。外界への反応が鈍り、まるで皮膚が空気と一体化しているようだ。体と外界の区別が徐々に無くなり、死んでいく。
2022/6/7 根菜
最近何をしているのだろう。あまり思い出せないので携帯のカレンダーを見てみると、五月から同じような感覚の予定を過ごしていた。手拍子で言うと、タン、ウン、ウン、タン、タン、ウン、タン。毎日、コーヒーを飲んでいる。
やりたいこととやりたくないことが混ざっている。というよりは、できることとちょっと不得意なことが混ざっている。
バイトをし始めて一ヶ月経った。腕と足は何となく筋肉がついてきたが、胴の部分はあまり変化がない。意外と猫背になる。
バイト後は、疲労の反動で頭があまり働かない。なので、特に何も考えずにスーパーに寄ったり、家に帰れたりする。自制が少し緩くなり、多めに物を買ってしまう。疲れとお金が入るという安心感のせいだろうか。
あまり物事を考えすぎずに生活できるようになった気がする。また、バイトを始めてからビールがより美味しく感じるようになったことが面白かった。
このループに嵌ることができれば、バイトも仕事もなんでもできそうな気がするが、その反面、自分の考えや反応に無頓着になるのだろう。
別にそれでも面白いのかもしれないと思ったが、週二日ではそうなれなかった。他の五日間はあまり家を出ることもないので、酒を飲むような反動を得る機会がない。
昨日、友人と夕方から会ってご飯を食べたとき何故か一人で結構酒を飲んでしまった。夜の外食には酒だと勝手に決めつけているのかもしれない。飲んでも大抵良いことはなく、数時間アホになって、早朝に二日酔いにうなされて鎮痛剤を飲んで二度寝する。
恐らく、酒を飲むという虚しさを気づかせないために酒を飲む。しかし、二日酔いの最悪な気持ちから回復していく体は好きだ。普通の健康が良いものだとわかる。
最近、飲酒でのコミュニケーションは便利で楽しい反面、雑な解決方法であると感じるようになった。
酒が珍しかった時代は、年に数回お祭りのように酒を飲む機会があったらしいが、今、道を歩けば様々な方法で簡単に酒が手に入る。
そうした環境でも、体の仕組みは昔と大して変わっていないだろうから不便だ。もう少し自制が簡単な体になってほしい。
何かの本で、獣類の頭には本能や欲情に対する自動調節装置がついているが、人間にはそれがなく、大脳前頭葉が代わりにあるというのを読んだ。人が自ら大脳前頭葉の働きを使うことで、人は人として存在し得るのだという。
自分の体は、自分で調整しなければいけない。徒然草や菜根譚を読むと、昔の人間の体もあまり変わらないのだと知る。人間を人間とたらしめる要素は、すでにこの体にあるのだろう。その声に耳を傾けられる環境にいたい。
2022/6/8 ザッピング
バイトの癖で、何もない日でも朝の六時頃に目が覚める。週の大半は何もないというのに、どうしてそちらに体が引っ張られているのか分からない。けど、早起きは気持ちが良いので助かる。
珈琲を淹れて、カレーを食べてみた。胃が少し疲れるが、強制的に今日一日を動かされるような気がして好きかもしれない。
私は、普段の行動範囲外で出会った人ともう一度会うことがあまりない。連絡先を交換している場合でも、こちらから連絡しようという気が中々起きない。思い出せば、日本の様々な場所にいる人たちを覚えている。声は忘れてしまった。
あと、私はよくバイトをいきなりやめる。多分、見送られるのが苦手だ。また、誰かと親しくなって自分のことを話しすぎると、その人と会いたくなくなる。
なので、自分から会いにいく人というのは何かしら理由があるのだと思う。大抵は会ってしばらく経った後にその理由に気付いたりする。もしくは、それらしいことを言語化できるようになる。
そんなことを考えながら知床の冊子を見ていると、あの土地に吹く風のことを思い出した。冷たい風が海からいくつもの石の間を通って、草木と共に体を撫でていく。遠くに見える斜里岳。
彼らの姿が大きな土地にぽつぽつと点を打つように見える。あの場所は、人間同士の感覚がちょうど良いのかもしれない。
そんなこんなで、2020年に1回、2021年に2回、今月末にもう1度行こうとしている。そんな土地が他にもあるのかと知りたい反面、この土地をもっと良く知りたいと願っている。
たくさんの風景を通り過ぎたことを覚えている。電車や車のような速度で街を通り抜ける風景がザッピングのように移り変わる、朝の9時33分。
2022/6/9 準備
11日から16日まで熊本に行くので、その準備をしている。家の食べ物の備蓄は徐々に無くなり、衣服や道具がリュックに詰め込まれ、部屋から物が減っていく。
このとき、部屋は呼吸をしていると感じる。私の体も上手に代謝を繰り返して呼吸をしている。
広島のように何の準備もせず、その日に行動してしまう突発的な旅も好きだが、今回のようにあちこちで物を集めながら準備をする旅も好きだ。
死んだ人の本を読む。生きている人の本はあまり得意じゃない。
それでも私は日々、日記を書いていてサイトは更新している。それを読む誰かがいる。自分の望みと行動が一致していないかもしれない。
日記を書き続けるにつれて、以前よりも旅についての考察が深まり、少しの目的や意図を持つようになった。しかし、確信的なことは考えないようにしている。
そのことが分かったつもりになってしまうと、どこに行っても同じになるし、旅をする理由がなくなる。土地に紛れ、流される。それが一体どういうことかわからない。
2022/6/10 昼の街
多種の布、靴、化粧品、茶、珈琲、焼けた粉物の雑多とした匂い。それらはワンフロアに小さく集まっており、よく注意すると様々な匂いを嗅ぎ分けることができる。
総武線のホーム。鼻の穴から食道まで、肉が詰まっている肥えた男が喉を鳴らす。その音が、獣、または家畜の鳴き声のような音なので、自然と気を取られた。
男は裸の単行本を読み、ページを読み終えると1枚ずつ破って鞄にしまった。人間と獣の間を垣間見たようだ。大きな音を立てて三鷹行きの電車が来る。
本屋に入り、封の閉じられた本を買う。嬉しい。どうして嬉しいのかと思うと、ずっと古本しか買っていなかったからだと気付いた。同じ本なのに、店と本自体の匂いが全く違う。
歳を取ってから、古本の方が好きになった。買う場所、年代、紙の褪せ具合、折り目、手書きの値段、全てが違くていい。また、本は、その時の興味や知識によって気になる文字や背表紙が変わるので好き。
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