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2022年2月




2022/2/1 ライフライン


最近、現実逃避を頻繁にしてしまって、その欲求が収まることを望んでいたが、今日がその日のような気がする。昼に、コンビニで買ったナンをフライパンで温めて、レトルトのカレーに付けて食べたのが良かった。


卒業制作のプレゼンの2日間と、展示のあの独特な状態が4日間続いたこと。6日間の緊張状態をまだ忘れることができない。体力的には回復したと思うが、自分が外交的な状態に自然となったこと、そうなることができてしまったことの反動がウンウンと響いている。


結局、何かしらで生き抜く本能やら、何かを達成する計算めいたことができてしまうのかもしれない。何がしたいのか、どれくらい生きたいのかぼんやりと考えはするけど、その曖昧を実行している?

どこまでが自分の意図した範囲で、どこまでが恩恵的なものなのか曖昧だ。


東京の部屋で少しのものを作ったりしながら生きていると、労働もなく、のうのうと時間にゆとりを持って暮らしていることに苦痛を感じた。それは学生の間、何度も感じていたことだったが、これからはもう、そういった柵から外れて、落ちるところまで落ちることが可能なんだ、と思うと気が重かった。

何もしていないのに、余計に何もできなくなる。生活用品の買い物と消費衝動との違いが分からなくなって、余計なものも買ってしまう。


昼間、日本橋で話をして聞いた。自分が旅をしているといった内容を話すと、今の家は出るんですか?と聞かれて、私がここに留まる理由は特にないんだと気付いた。


帰り道、最寄りの駅で、私はここにいる意味はない、ここに帰ってくる理由もないと思うと、数年前この街に初めて来た時のような楽しさを感じた。夜は鶏肉などを揚げて、ビールを飲んだ。その後、キッチン周りと床を丹念に掃除した。





2022/2/4 行事

最近、基礎体温が上がったのか、防寒能力が上がったのか、冷えがあまりない。生活が徐々に体温を持ち始めた兆しだった。その証拠にずっと逃げいていた水回りや床の掃除をして、それらに必要なものを買いに行った。


また、長い間、自分の部屋に花を買って良いのか迷っていたが、昨日?手ぶらで街を歩いているときに入った花屋で、小さい花の付いた枝を1本買った。


家に帰り、白い花瓶に枝を挿す。実家に咲くユキヤナギに似ていた。山の匂いが強くなってくる春に花を咲かせ、自身の重みで大きく垂れさっていた花。


私は、自分が両親の家に近づこうとしていることに気が付いてどうなのだろうと思った。それは生活の始まりだった。私は暫くの間、この部屋に住むことを望んでいるのだろうか。






2022/2/5 制作、生活


2021年10月18日に引っ越ししてきたので、今日で114日目になる。17回目の火曜日。特別に今日がなにという訳でもないが、最近になってやっと生活が安定してきたように感じる。

家がなかった間のことについて。


最初は、放浪生活そのものが衝動によるものだったので、写真を撮ることも記録につけることも頭になかった。それは、それまでの旅で築かれた、生活や部屋への違和感や疑問の蓄積だった。


守るものを大して持っていない私に、毎日同じ場所に帰る意味はあるのだろうか。私はそれほどまでものを持つことが許されているのだろうか。もっと身軽に生活し、余計なものを削ぎ落とした結果に残ったものを知りたかった。


1度でも目的のない移動を行うと、心は徐々に原始?と近づいていった。そうやって移動への関心が高まり、生活と移動を密接なものにした。


自分の部屋がないというのは、昼間の何もしないような時間さえも、どこか居場所を見つけなくてはいけないということだった。


基本的に、大学4年生の最初は特にすることがないので、上野公園で本を読んでいたり、市ヶ谷で釣りをしていたりした。学生という身分を心の頼りにしていた。


そうした6、7ヶ月は結果的に言うと、肩が痛かった。リュックに衣服や化粧品を詰めて移動するからだったけど、部屋があるときよりも見た目の清潔さに心掛けている自分を発見した。


よく分からない人々が集まるようなドミトリーに寝泊まりすることにある種の負い目を感じていたからだと思う。


また、その町の環境に慣れようと、新しい環境に順応していく生物的感覚を知った。この現代ではあまり命の危険は感じないのに、生存本能は機能していること。


自分の中に、落ちる手前で踏みとどまる意志のようなものを見た(学生という身分が少しズルいけど)。言語化や意識化されていないところで存在する、生活の保持や人間的な境界に少し触れることができた気がした。


どこまで自分の習慣や生活を崩そうと思っても、崩せないものがある。それは、自分がかろうじて認識することのできる自己のようなものだった。


この家にいつまで住むのか、再び移動生活を始めるのか分からないが、この環境に身を浸して内側の声が聞こえるまでコツコツと準備をしようと思う。


また、この部屋で捨てられないものがあること、少しの食糧を蓄えている自分があることに少しの喜びと絶望を感じる。けど、家賃が安いというのがこの部屋の価値のような気がして、気が楽になる。


今の私はあまりものを所有したくないらしい。自分の所有物ではないものに、満足している部分が多いからだろうか。






2022/2/12 スコーン


昨日は手伝いでペンキ塗りをした。今日は、白い薄地のカーテンから差し込む日差しで、湖でカヌーをしたことを思い出した。


13時過ぎに起き上がる。布団を畳んでコーヒーを淹れた。パスタを茹でていると、昨日のことが存在しなかったかのような体の軽さを感じる。脳は覚えているけど、体は忘れてしまった。


部屋には貰った蕎麦とうどんの乾麺が大量にあり、それを消費することが食べることよりも目的になっていた。しかし、それを昨日人に話したところ、何かおかしいと自分で気がついて、昼間の気持ちの良い時間帯に買い物をしなくてはいけないと思った。


15時頃に家を出る。街は太陽の白さに包まれていた。目の前の物事が全て、穏やかで当たり前のものに感じるし、珍しいものにも見える。


人の流れにのって、以前見つけた花屋に向かった。ここかなと思って入った花屋で、実のついたユーカリの枝買った。そのまま見覚えのある道を進んでいると、記憶の中の花屋があった。先ほど入った花屋は全く知らない花屋だったらしい。

駅に近づくにつれて、ひしめき合うように店が建っている。覚えている店とそうでない店があるのか、時間帯によって認識できる店とできない店がある。


最近は、曇りの日に家を出ると浮遊感に襲われて、途端全てのことが現実味を無くす。


コンビニに寄って、全身鏡で自分の姿を見る。重いものをたくさん持ったボロボロな私が映ると思ったが、予想以上に小綺麗な自分が写って驚いた。





2022/2/13 人間の建設

何となく7時に起きてテキパキと行動したいけど、いつも9時に起きる。


やることはあるけれど、今はゆっくりと体に落とし込む時間なのだと思って、本を読んだ。やるべきことへの意志は持ち続けて、それが動き出すときまで待つしかない。「人間の建設」という小林秀雄氏と岡潔氏の対談を読んだ。






2022/2/14 文章と


私は文章を書くとき、1つだけどうしても表現しないと煮え切らないものがあって、それを伝えるために物事を順序立てして書いていく。


日記という形は、その面で便利だ。思い出しながら書いていると、自然とその直感へ繋がっていき、適度な分量になる上に、日々の記録となる。


続けることは難しいけど、多少の義務感と習慣でなんとかやっている。思考の整理が習慣となっているのか、思考の整理が必要な状況になったために習慣化したかは、よく分からない。


でも、かつての日記(1つ前日記さえも)が自分で打ち込んだ文章だと信じきれない。自分という人間だとしても、今を生きる自分ではない。それらは、既に分離した、剥がれていった細胞のように感じる。


今の自分をどのくらいまで保っていられるのか。




2022/2/24 r


綺麗な青年になった夢を見た。


ラジオをyotubeに投稿している子がいたので、私も真似して音声を録音してみた。2、3回同じことを話してみても、どうも気に入らないのでここにアップしない。


よくラジオを聞くが、自分が聞き流しながら感じているよりも、彼らは話し方や声の抑揚が上手なのだと気付いた。


卒制のとき、自分の声を録音してスピーカーから流せば、自分と自分の声は強制的に引き離されて、自分の体から少しでも離脱できるのではないかと思った。やっていない。


昨日、千代田区の美術館に行って、2年生の時に授業を受けた先生の展示を見た。最初はよく分からないと思ったけど、文章を読んで、部屋のあちこちに結ばれた細い紐を見ていると、その手作業の感覚と時間が、自分の中にも再現されて良い気持ちになった。


全てが崩れて、破けて、落ちそうな、かつて使われていたものたちが、本来と異なった場所でかつての時間や体の感覚を記憶していた。


その授業を受けていたとき、自分の体からの離脱についてよく考えていた。そのときは今よりも物事を極端に考えていたので、本当は体なんていらないのに、と体と魂が別のものと考えていた。


体を出入りする空気などに意識を置いて、この体を通り抜け、あらゆるものになれたらいいのにと思っていた。その後、身体があるから物事を認知するということにちゃんと気づいて、体からは逃れられないことを知った。


体の中にある、風や光の中に吸い込まれるような、ふわっとしたものは、人間の身体が持つ確かなものだった。






2022/2/25 晴れた

亜鉛系のサプリを飲んだおかげか、8時前に起きることができた。嬉しい。しかし、祖母は5時頃には目が覚めてしまうと嘆いていたらから、眠れることは幸福かもしれない。


最近、排水系の設備から変な音がする。まあいいやと思っていたが、体のどこかがそれを嫌がって、散歩に行くことにした。日差しが暖かい。


水のことで気持ちが落ち込んでいたのに、水を見たくなって遠くの公園に向かう。途中で道が分からなくなって、同じような場所を回り、結局は川の流れに沿って公園に行った。


着いた公園は、思ったよりも春らしくなかった。冬に来たときと何ら変わらないように思えたが、よく見ると、桃が少し咲いていたり、葉が生き生きした緑色になった。


また、私自身が、気温のせいでこの風景を寒々としたものと捉えていない。背丈よりも高い木の先に小さな蕾がたくさんあるのを見つけて、少し泣きそうになった。植物は着々と春の準備をしている。


蝋梅が終わりそうなのを見て、マスクを外して匂いを嗅いだ。甘い匂いがする。マスク生活が始まってから、嗅覚が鈍くなったような気がする。


現に、道中で感じた街に漂うものが、春の匂いか燃えるゴミの匂いか区別がつかなかった。実家に帰ると、それらのものを明確に感じ取れて、実際の花などを見なくても、季節や山の持つ予感を感じ取ることができる。






2022/2/26 お届けもの


今日は暖かいとラジオが言っていたが、7時頃はまだ寒かったので40分ほど布団から出られなかった。この寝ぼけている時間は、さまざまな知覚が鈍る。


近視のせいかもしれないが、部屋の間取りや横にある本棚がぼんやりとしている。それでも、慌てて飛び起きないのだから、私はこの部屋に安心しているのだと思う。


もういいや、全部後でやろうと思ってぐだぐだしていると、ラジオから流れる何かの言葉によって体が弾かれたように飛び起きた。


その動きのまま、家のゴミを全部出しちゃおうと思って今日回収のペットボトルと、月曜日回収の瓶と缶を捨てようとしたら、隣の建物の2階から中年の男に怒られた。瓶の音が響くからバレたらしい。


荷物が届いた。父が水戸の偕楽園に行った土産を送ってくれた。中身は、野菜とポンカン、カリカリ梅、梅干し、梅昆布茶、のし梅、干し芋、乾燥納豆、偕楽園で拾った松ぼっくりのような何かの種子、お金が入っていた。


1番嬉しかったのは、偕楽園で拾ったという種子だった。見た瞬間、少しぼんやりした。まるで自分が偕楽園でそれを拾ったような気がする。屈んで、トゲトゲのそれが手に刺さらないよう、力を抜いて拾った体の記憶がぼんやりと再現された。


その後、新宿の伊勢丹でカステラと、明日会う友人のためにクッキー缶を買った。


あと、新宿にある中古カメラ屋に行って祖父のフィルムカメラを修理に出そうと思ったが、別の同じ機種を買ったほうが安くて確実だと言われた。


カメラがそのままの形で直せないと聞いたとき、私は泣きそうになっていた。その自分に驚いて、何だか満足してしまったので、何もせずに帰った。明日は今日よりも暖かいらしい。














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