2022 /4/24
六時三十分。白い布団の上で目が覚めた。昨晩に理由もなく設定した携帯のアラームが鳴っている。上半身を起こし、少し離れた場所にある携帯電話のアラームを止めた。そのままラジオを起動させて、再び布団に体を滑らせる。
手足が使い古した布に触れると、皮膚がふやけて自分の体が少し柔らかくなった気がした。足を少し動かすとシーツの端が冷たい。今日は起きる理由がなかった。
そんな微睡のはっきりとしない意識の中にいると、自分や遠い世界のことが手にとって分かるような気がした。まるでラジオの機械的な声と親和し、自分の考えが広がっていくようだった。
再び目を覚ますと、ラジオでは子供が様々な専門家に相談をしていた。窓からの光は先程よりも暖かなものになり、頭上の白い綿のカーテンをわずかに揺らしている。
熱で寝込んだ幼い私を介護する母の手を思い出した。私はか弱い病人の気持ちで寝返りを打ち、本棚の色とりどりの様子を眺めてゆっくりと目を閉じた。
それから少しの時間が経ち、小部屋に日曜日の幸福と不安が満ちたとき、パタンという大きな音が響いた。上半身を起き上がらせる。どうやら玄関の郵便受けになにかが落とされた音のようだった。少しの緊張が残ったまま周囲の状況を整理していると、ラジオの声が一文字ずつ頭に反芻した。それは、よく知っている土地で起きた事故のニュースだった。
観光船の沈没。平和と威厳を湛えた大きな海の、青々とした色彩を目の奥で思い出す。
あの海はいつだって人間を知らなかった。荒々しく、静かで、夜には水平線を乗り越えて町の足元まで迫りくる。目頭から鼻の奥を通り抜ける微かな潮の香りは、海と繋がっていた。海がすぐ側に見える。
次に、手前の街から港まで続く一本の曲がりくねった道路が見えた。その次には、港や町で心配する人々や車の走っている様子。カンガルーのキーホルダー、ベンチ、大きな岩、白い鳥。
そうして町を形成するものが徐々に広がり、わっと小さな部屋に押し寄せた。部屋は一層狭くなり、私を勇気づけて落ち着かせたものたちは、全てどこかへ押し出されていった。
心臓が脈を打っている。辺りの白さがいつもより濃い。先ほどの投函音が大きく体に反響し続けている。私は目を閉じて祈るように、もしくは逃げるように身を小さくして眠った。
昼過ぎ、体から睡眠が遠ざかる。布団を片付け、お湯を沸かす。一時間おきに五分間流れるラジオのニュースから再び観光船の沈没の話題が流れ、私は自分が目を覚ましていることに気が付いた。
その町には三回しか行ったことがなかった。知り合いが数人いる。知り合いの知り合いを辿れば、町中の人と知り合えるかもしれない。それほど小さく、自然と人間が共に暮らしている場所だった。
どうして私が、その街を大切に思っているのか自分でも分からない。大切に思っているかさえ分からなかったが、事故を聞いたときの心の動きは、どうしようもない脱力感に覆われた焦りと悲しみだった。それは、私にとって町が大切だと教えてくれた。
ニュースは、事件の責任や安全管理に対して何度も取り上げたが、それよりもたった二桁の数字が何よりも真実に落ちていくのを感じた。それだけで充分だった。
つい先ほどまで、眠っているのか起きているのかよく分からない日々だった。生活のひとつひとつに躓いて、どうしてこんなことをしているのだろうと考える日々。
あるとき、料理や文化を支えた清潔の感覚が、人間の体に宿っていることに気がつき、過去の知らない人々の精神が私を動かしているのを感じた。その灯火のような安心と奇妙を抱えて、淡々と体の容量を維持していた。
しかし、今ではその全てが意味を失い、朝を待ち夜を待つことがひどく滑稽に感じた。急いで、岡山行きの夜行バスを予約する。今夜の九時五十五分発。お金はなかったがどうでも良かった。
こうして逆に向かう旅路は、沈んでいく人々への追悼のようだった。遠い地で起こり、大々的に報道される戦争に対して私はこう反応しない。きっと、あの町と海を、私はもう知ってしまっている。抵抗のできない何かに押し出されてバスに乗った。
四列シートの狭い座席と薄っぺらい毛布、着替えのない小さな頭陀袋のような鞄が心地よかった。交通事故、感染症、急な体調の変化、様々な可能性が過ぎったが、部屋にいるときよりも安全と健康が冒されているこの場所が今の私の居場所だった。
そして、そんな場所にある体は沸々と熱を持ち、内臓や血液を滑らかに動かしては、腹の底にある冷たい海水に冷やされ均等を保っていた。この魂に打たれた体は、従順で明朗だった。
2022 /4/25
朝八時頃、倉敷に着いた。至るところに喫煙所があるので郷に従う。仲の良い友人がこの街の出身なので、この街のことは少し知っていた。
駅を挟んで北側が治安が良く、南側があまり良くないらしいことや、彼女の思い出の話。それらは確かに存在するのだろうが、街の表層だけでは分からない。白色や桃色のタイルに光が当たる、ゆったりとした街だった。
まだ店の開いていない古い街並みを歩き、工業高校が隣にある、アパートの一階の古い喫茶店に入った。ソファーの向かい合った席が多くて薄暗い。壁にかかったポスターはヤニや日焼けで茶色く燻んでいた。
ホットドックに、サラダ、茹で卵のついたモーニングを食べる。店内には中年男性の二人組と老婆の二人組がいたが、強い訛りのせいで会話はうまく聞き取れなかった。窓の外では、強い日差しがアスファルトに照りつけ、病院の駐車場のバーが何度も上がったり下がったりしている。
生き残った人おるん。昨日のは15人死亡って。低体温症やな、低体温症や。
突如、客と店主の会話がはっきりと聞こえた。ガラスのコップの底に小さな水溜りができている。忘れかかっていた体の冷えを思い出した。そうだ、とどこに置けばよいか分からない目線を浮かせ、何も見えなくなる。座っていられる心持ちではなくなったので、電車に乗った。
何となく尾道で降りてみる。去年、しまなみ海道を四国側から原付で少し走ったことをぼんやりと思い出した。
白い太陽が似合う街だった。新しいものが古いものにうまく馴染んでいる。対岸には大きな島が見え、その際には造船所がいくつも建っていた。駅前には修学旅行生が何グループかに別れて歩いており、白いシャツが眩しい。男子高校生の少し戯けた声色を、街は抱擁していた。
私はアイスコーヒーを買って海沿いの公園を歩いた。化粧をしていない顔と、黒の長袖とジーパンは不格好だったが、私は明日にはここにいないと思うとどうでもよくて寧ろ心地よかった。
公園沿いで、使い古された小さな船が三艘並んでいるのを見ていると、ある老人に声を掛けられた。一杯どう、という声に二つ返事で、彼が飲んでいた木のガーデンテーブルの椅子に腰掛ける。公園内の小さな食事屋にある唯一の日向席だった。
生ビールを飲んだ。よく晴れた太陽の元、月曜日の昼間から酒を飲むのは快いことだった。また、それを受け入れられる体の調子を感じられたので、気分はより良かった。そうした調子の誇張と目の前にいる老人への心持ちによって、私は数杯飲んでも酔わなかった。
老人は、この向かいに見える島の出身で、大学へ行くために東京へ行き、様々な場所を点々としながら北海道でも暮らしたことがあると話した。また、この時代を残した街の様子や、彼の母や兄弟の話を聞かせてくれた。
私は不思議にも、この老人に対してどっしりと心構えをしている自分を見つけた。見知らぬ人同士で酒を飲み、相手が無害な人間かどうか見極める、たったそれだけのことだった。
何杯か飲んだ後、老人は私を小さな骨董屋に連れて行った。記念に好きなものを選べ、というので適当な青いガラスのオイルランプを手に取った。次は映画を見ようと言ったが上映時間ではなかったので、タクシーで小山を登ったところにある見晴台に行った。
車が進めるところまで行くと、残りは徒歩だった。ツツジに囲まれた坂道を登ると、老人は辛いと言って私の手を握った。私はこの老人に対して、祖父か父の姿を見出そうとしていたが、それは全く知らない人間の形だった。
私の魂が縮こまり、体液に塗れながらぬるぬると動き回っているのを感じる。全ての言動を避け、魂は固い球のようななにかを守っていた。この街で私は全てを放棄した気持ちになっていたが、まだ持っているものがあるのだと体が教えてくれる。それがあるだけで十分だった。
その後は老人の言う通りに、アイスを食べて再びタクシーで駅前に戻り、居酒屋に入った。何杯か飲んでいると、老人が、良い女だ、と私に対して何度か言ったが、果たしてそれは誰のことだろうと思った。
その女は彼の中にだけにいた。私はそれを映す器だった。彼の目に映る幻が、私の表層に存在する。私は何者でもない、彼の記憶と幻想の中にある女になっていた。私は私の中の想像から解き放されて、彼の中に広がっている。
歳をとった体が抱く都合の良い想像が、真実になっていく。私は、私から離れていく心地よさを感じた。
私は老いた人間の顔が好きだ。眼差しの奥に、詩にも音にもならないようなイメージが明滅している、浮世離れした表情を持った顔が。
彼ともうひとつ店を移した後、私の予約していたゲストハウスのチェックインが二十時までだったので商店街の路地で別れた。そのとき、一瞬強く抱きしめられた。その力強さは、私たちの共有していたイメージから少し離れたものだった。
私は、ヌルッと体から飛び出した魂を感じ、驚いた。魂ごと、老人にやってはあげられないんだなあと思い、彼の背中を強く叩いて、気をつけてと言って別れた。
2022 /4/26
二日目の朝。幸運にもゲストハウスには私以外の客がいなかった。二日酔いのために二段ベットの隅で苦しんでいると、ドタドタという子供が廊下を走る音や、母親のような声が聞こえた。どうやら、オーナーの家族が同じ建物に住んでいるらしい。
八時頃になってシャワーを借りに一階に降りる。すると幼稚園生くらいの子供が食卓でご飯を食べていた。お、おはよう、と言ったが、じっと見つめ返してくるだけで返事はない。母親は洗面所におり私が近づくと、どうぞ使ってくださいと快く退いてくれた。
身支度を終えて二階の窓から外を見ていると、玄関に車を停めているオーナーの姿と子供を急かす母親の大きな声が聞こえた。子供は呑気なようでなかなか出発しない。
やっとのことで車が出ると、家の中は不気味なほど静かになった。私は置き手紙を書き、宿を出た。
適当な寺に寄ったりしながら、商店街の喫茶店に入ってモーニングを食べた。店内は、沢庵と熊本の祖父の家の台所を混ぜたような、決して良くはない匂いがする。本を読むこともできないまま、適当にテレビを見ながらご飯を食べて店を出た。
電車に乗った。乗り換えで、二駅移動した先で一時間ほど待たなければいけないらしい。小雨が降って散策をする気分ではなかったので、閑静な古い住宅街にある喫茶店に入る。歌謡曲が延々と流れる中年女性が店主の店だった。
適当に今夜泊まる宿を予約していると、この植物、浦島太郎と椰子の木みたいでしょう。ここ、釣竿で。窓辺に置いておくとね、すぐ太陽の方向くんですよ。だから、ここ置いとくね。と、目の前の窓際に鉢が置かれた。
店内には私しかいなかった。彼女の趣味で、三つの出窓には様々な植物の鉢が置かれている。それらは全て見たことのない形をしていたが、元気そうによく育っていた。
一植物を眺めながら二度目のモーニングを食べる。苺のジャムがたっぷり塗られたトーストは、珍しく自分の中で心地よく感じられた。生の苺がサラダの上に添えられていた。
電車に乗った。適当な窓際に座りながら、雨粒の下る風景を眺める。通り過ぎていく靄を吐き出す山々、広い校庭のある小学校、赤茶色のマンション、白い海辺に浮く島々。そうしたものが私の体を通り過ぎて、色を失いながら蓄積していった。
重なり合った風景が生み出す空想に、私の体は意味を失っていき、機能の知らない体がただ電車に揺られて移動していた。そうやって私はこの街で自由を得て、私の目は遠い地の人々から離れられない。
見知らぬ地に体の自由を任せる。何も持たない私の、その残り滓が呼び起こす人々への声。その声が聞きたくて、私は家族や友人から離れていく。
初めて会う人々は、皆誰かの面影を持っていた。女も男も、両方の性を隠し持ち、老人の中にある青年が私の前に表れる。あの喫茶店の女主人は、遠い私の親戚だった。
私は本当のこの街を、何も見ることができないでいる。立ち現れる追憶の風景と人物に囚われて、全くこの街の奥に入り込むことができない。もしくは、入り込みすぎているせいで、何もかもが繋がって見えているのだろうか。
呉に着いた。雨がひどく、駅の周りから出られなかったので、室内や屋根付きの道を歩いて港にたどり着く。適当に入った施設がフェリー乗り場だったので、広島港行きのチケットを買った。先ほどまで考えもしなかったが、思いついた頃にはもうチケットを買っていた。
周りには喫煙所がないので、老人たちは皆、外の通路で船を見ながら適当に煙草を吸っている。二階のフェリーの待合席の側は、市民が自由に使えるらしく、老人たちが向かい合って将棋を打つ音がパチパチと愉快に響いていた。
船を待っている人々は、ぼうっと意識をどこかへ飛ばした頼りない顔をしており、建物も人々も昔の亡霊、または壁に沈んだ染みのようだった。それらは全て曇り空の微かな光の中に浮かんでいた。
広島行きのフェリーに乗る。席は広々とし、船内は清潔感があった。私は落ち着かずに階段を登って、雨風に吹かれながら手すりを掴んで外の風景を眺めた。
ボイラーらしいものが激しく唸り、辺りには轟音が響いている。それは内臓まで貫通し様々なものを揺すった。海上を荒れ狂う風は、全方位から絶えず吹き続け、私の体力を徐々に削っていく。体は、ただ立って息をすることで精一杯だった。
そんな状況は、じっと座ることを許さない私の欲望のようなものに合っていた。激しい嵐のようなものに体を脅かされることや、体を歩かせ続けることを望む欲。おそらく、それがこの旅の根源にあるのだろう。
遠い、意味の持たない島々や陸地が流れ去った。船の何かが回って、旗が雨に濡れて力なく揺れている。銀色に濡れて光るテーブルと椅子。ここには何も頼れるものがない。海の上をじっと息を潜ませるように見ていたが、私はどこにも映らなかった。
広島港に着き、船を降りた。船着場は、よくある港のように薄暗くて静かだった。東京の有明港でさえもこうした雰囲気を漂わせている。同じ移動の拠り所である駅や空港の慌ただしさがここにはない。
船を待つ人々は皆、ゆっくりと椅子に座って待っているだけだった。こうしたところも含めて船旅は好きだ。皆が海に出ていく心構えをしている。海の大きさに沿った正しい時間が流れている。
私はすぐ側にある路面電車に乗った。夏の夕方を忘れられない褪せ方をした古い電車だった。少しして電車が動き出す。カタカタと揺れながら車と並走する。街並みが近い。すぐ側に人が見える。
広島駅に近づくにつれて乗客が増え、隣には小学生の女の子が二人座った。隣の子は、私が壁であるかのようにランドセルを押し当て、水滴のついた傘を私の足が触れる場所で持った。左足のズボンが徐々に湿って皮膚まで冷たくなるのが分かる。私はじっと壁になった。
よく分からないまま終点の広島駅で降り、適当に駅を散策してから宿の方に向かった。傘を買うことが癪だったので雨の中を歩いてみたが、ずぶ濡れになったので安いビニール傘を買った。小さい傘のため足元は濡れたが十分だった。
宿の手前でうどんの入った広島焼きと生ビールを飲んだ。テレビでは知床の観光船のニュースが流れている。食事の美味しいことが正しいことか分からなくなった。
宿にチャックインし、二段ベットのひとつをもらった。ここは繁華街が近いので、多くの人が泊まっているようだった。男女混合の大部屋に十数台の二段ベットが置いてある。
端にある上段のベッドに体を滑らせると、濡れた衣服と疲労した体があった。白くて少し固いベッドと、ドミトリー特有の人間と布団の混じった匂い。シャワーを浴びて眠った。
2022/4/27
三日目の朝、繁華街から少し離れたところの喫茶店に入った。ヤニで全体的に黄ばんでいる広々とした建物。奥は鬱蒼した暗がりで、この店ではきっと窓際の席に座るのが昼間は良いに決まっていた。
しかし、私は窓際にいる広島訛りの中年男性たちに背を向け、店の真ん中ほどに座っていた。モーニングは耳の切られたトーストと茹で卵、缶詰の蜜柑、バナナが二切れ。たっぷりのホットコーヒーと一緒に煙草を吸うと、まだ何も見ていないのに自分が広島にいることをしみじみと感じられた。
そうして、昨夜のことを思い出す。ドミトリーの二段ベットの薄がりは想像通りに落ち着いた。履き続けているジーパンは蒸せて汗ばみ、下段の女の鼾がよく聞こえた。たまに聞こえる男の喉を鳴らす音、女の咳。不安定な二段ベットの細い階段は、低い天井の中で体を変に動かさないといけなかった。
全てが不自由で清潔ではない、そんな中に身を投じると自分が消えて、意識の途切れ途切れに玉のような硬い自己が見え隠れした。そんなものにひどく安堵する。
そうした一瞬、この世の陽だまりのような温かさを見るために、私は疲れ切った浪人の真似事をしている。そして、その中に明滅する家族や友人への想いは、どんなものよりも、私が確固な一人の人間だと教えてくれた。
家族との関わり方で最も好きなことは、地方で土産を買って送るときかもしれない。これが私の魂の在り方なのではないかと思うほどに、何かが正当化される。
何も聞こえなかった店内に、包丁の研ぐ音だけが嫌に鮮明に聞こえた。今の私にも、生命への執着は確かにあるらしい。また、午後からは仕事の打ち合わせがある。次の日曜日には園芸のバイトが始まる。来週の連休を過ごす予定もある。
予定の間にある私の旅は、全部作り話だ。こんなものは仕込まれたものだ。決して、捨て身ではなかった。そのことで苦しくなったが、そうあることがいかに幸福であるかよく知っていた。
この小汚い喫茶店はひどく心地が良い。窓際にある多少の救いが、大きな木の椅子に黒い影を落としている。あまりにも飾り気ない食器棚やカウンターはまるで不細工な玩具のようだった。
店主のおばさんは、私に留守番をさせてコンビニに行ってしまった。とても美味しくはない珈琲は、自分が求めていた味だった。座って煙草を吸っていることが快調だ。ここは私の確かな広島。
店を出るとき、店主は留守番代として五十円おまけしてくれた。そのとき、マスクをしていない女性の顔をまともに見た。大きな染みがまばらにある顔の目は、何だか懐かしいような感じを持っていた。
ふらふらと原爆ドームまで歩く。人のいない風俗街を通り、飲み屋街、大きな道路、屋根のある商店街を過ぎ、地下通路を通って表に出ると、街の風景に原爆ドームがあって驚いた。
普通に散歩する人々やボランティアらしい清掃員がドームの周りで寛いでいる。この街の人らしい女性はドームに目もやらず通り過ぎていく。
ドームは芝に囲まれ、周りには一周して柵が立てられていた。その中には大きな黄緑色の葉をつけた木々が育ち、柵の周りには桃色の大きな花をつけたツツジが咲き誇っていた。ドームの瓦礫や壁をよく見ると、緑色の苔が生えている。
私は、原爆ドームはもっと恐ろしく、街の風景を困らせるものだと思っていたが、実際は街に馴染んで自然に戻ろうとする姿をしていた。どんなものにでも地球の秩序は働いている。
また、整備されて人々が訪れる場所はやはり心地が良いものがある。私はじっくりと回りながら壁や煉瓦に刻まれた傷の一つ一つを眺めて丁寧になぞった。
平和記念公園は観光客や街の人々を大きく包んでいた。私は少し安堵を持って、原爆資料館に入った。暗い部屋が続く。先ほどまでの安堵がこんなにも薄っぺらいものなのだと気が付いた。
破れた衣服と共にある持ち主だった子供の名前と顔写真、湾曲した建物の一部、溶けて固まった針の束、あらゆる身近なものたちが高温の熱によって変形した姿があった。また、被曝した人々の大きく伸ばされた白黒写真が暗闇で光っていた。顔、膝、腹、足、頭、目、あらゆる部位が黒く潰れている。
まるで暗闇に閉じ込められた気分だった。見たくもないのに、見ることのできる一部の自分がじっくりと写真を観察し、それらの傷を体に再現させる。暴力的に精神を乱される。あらゆる不安で不愉快な感覚が身体の内側で熟されていった。
ふと、側にいた男子高校生が、うわっ、ガチ怖ッと言うのを聞いて、少し助かった思いがした。そうだ、ある面ではそのくらいの言葉で片付けても良いのかもしれない。
一番堪えたのは、親子が交わした手紙だった。最初に見える文字の形だけで、あやゆる感情がドロドロに溶けていくのを感じた。その側に丁度よく修学旅行生の集団が訪れたので、その波に乗って出口に押し出された。
明るい廊下に出て、力が抜けたようにベンチに座る。あの暗い部屋の隅に座り込んで泣き出す人はいないのだろうか。何故か全てがすぐ隣、又は内側にあることのように感じ、窓から見える公園は、光を纏ったひどく恐ろしいものに見えた。
その後、私は携帯で打ち合わせをして、力が抜けたまま街を歩いた。仕事の予定というものが、自分を支えてくれていたことに気がついた。
私は、川の流れのままふらふらと歩いた。道中で猫を二匹見つけた。両方とも人間慣れしたように寛いで道にいたが、だらけた体についた顔はギラリとこちらを見て、私が危害を加えるものかどうか見極めていた。
歩く度に少しずつ進んだが、風景はあまり変わらない。澱んだ大きな川があり、広々とした建物が海や山に背を向けて建っていた。この街は、どこか好きな感じがする。
目を瞑ると、大きな川と橋に浮かんだ体が見えた。木の葉を揺らすほどの風が吹くと、熱を溜めた体が少し楽になる。
しばらく歩いて、体を休めるために温泉に向かうことにした。港の方面にある温泉に着いた頃には、原爆ドームから二、三時間ほど歩いていた。
くたくたになった体を洗い、熱い湯につける。人のまばらな夕方に入る温泉は心地良かった。露天風呂では地方番組が流れ、新しいお好み焼きを開発しようとしていた。おたふくソースがスポンサーの番組らしく、急に西日本にきたことを思い出した。
少し時間が経つと、番組予約のため自動的に広島カープの試合中継が映された。このために今度は、広島にいることを思い出した。そう思い出す前の私は、どこにいたのだろう。ここは一体どこだったのだろう。
2022/4/28
四日目、両親への荷物を出し、宮島行きの路面電車に乗った。少し疲れたようで眠っていると、もうすぐ電車は終点だった。電車を降りて街を歩く。
すると、何だか嫌な予感がした。新旧の代謝がうまく行われていない、建築や都市開発のことはよく知らないけど、何となくそう思った。港から向かって正面にある宮島口駅と、私の降りた路面電車の駅は古くて大きく、直ぐ側に路面電車の新しい駅が大きく作られている途中だった。
そして、何といっても新しそうなフェリー乗り場が傲慢でケチな感じがした。フェリーのチケットを買わないと海が見えないつくりで、全体的に洒落ていた。
宮島に着いた。フェリーは遊覧船といった感じでゆっくり進み、皆が楽しそうだったので、私はどうしたら良いか分からなかった。船を降り、ぼうっとした足取りで喫煙所に行き、藤の木の日陰で休んだ。鹿がいた。
藤の葉から溢れて揺れる丸い光を見ていると、もう島を一周した気分になる。しかし、一応神社の方へ行ってみようと、病院にでも行くような足取りで修学旅行生の中へ埋もれた。ここは一人でしんみりとくる場所ではなかった。
海や砂浜、ソフトクリーム、様々なものを用いて、皆が太陽と明朗に交信している。この島は、まるで光の幻影だった。私は何も手にすることができず、長く続く白い砂の道に歩かされた。
赤い鳥居は改修中で灰色の布で覆われていた。何故か私もそんな気分だった。何に覆われているのか、また、覆う方か覆われている方かも分からなかったが、上からも下からも自由に屈折する眩しい光に窮屈した。
逃げるように、ふと見えた木造の寺への階段を登る。お金を払って靴を脱ぎ、お堂の中に入ると全てが静まりかえっていた。皆が熱から逃げていた。
ペタペタと広い木の床を歩き、太い丸太の柱に寄り掛かる。それは確かな木だった。昼間にしか姿を見せない、人間を欺く幻影ではない確かなものだった。
宮島を出ようとすると、ちょうど修学旅行生の団体がフェリー乗り場を埋め尽くしていて近づけなかったので、少し離れた場所にある広島港行きの高速船に乗ることにした。
高速船の値段は行きのものと十倍ほど違ったが、その分快適さを得ることができた。船に乗ると階段を登り、テラスのベンチに座る。ここでも太陽は照りつけたが、強い風と飛沫のおかげでそれは心地よいものに変わった。船の速さは、光の欺きを全てふるい落とすようだった。
しかし、人間を二、三人乗せた漁船が光の粒の中に消えていくのを見た。どこかの船、もしくはあの船から見た私たちも、同じように見えているのかもしれない。海の上、逃れらないこの場所であの耐え難い光に呑まれている。
夕方、広島港に着いた。閑散としている建物の二階に上り、唯一開いていた中華料理屋に入る。誰もいない店内の真ん中にあるテーブル席に座ると、大きな窓から港や赤い灯台がよく見えた。
ぼうっと入口の椅子に座っていた中国系の女性の店員に、ラーメンと生ビールを頼む。ビールを飲むと、昼の太陽が残った生ぬるい空気に体が溶け込むようだった。船の出入りが少ないこの港は、まるで静かな草原。
意識は海と店内のどちらにも留まり、ゆっくりと波紋のように広がっていく。すぐにこの時間が終わることの分かる、緩やかな解放だった。少ししてラーメンがきて、塩味の強い味が体に入った。
路面電車に乗って街から宿まで戻る。シャワーを浴びると、夜の活気を抱いた街を彷徨った。喫茶店に入り、ホットコーヒーとプリンファンタジーを注文する。
プリンアラモードの下位互換が机に置かれた。確かに自分が頼んだものだったが、誰かが私にくれたのだろうと思った。私は先ほどまでパスタを食べようとしていた気がする。
背を高くして立っているプリンと果物に困惑し、少し間本を読んだ。そうして、手前のクリームをスプーンで少し舐めた。味がよく分からなかった。全部、舌触りの違うカラメルの味がした。
ひとつ、西瓜だけがあっと驚くほど、薄紅色の一切れに夏の様子を隠し持っていた。夏の涼やかな良いところを体に思い出し、少しだけ体温が上がるのを感じた。
2022/4/29
五日目。何か予定の数時間前に訪れる、あの期待と不安に満ちた生き躍る時間を過ごしたい。雨の街のハンバーガー店から出られずにいた。
これ以上何か頼むことも、小さな傘をさして何処かへ向かうこともできない。美術館にでも行こうと思っていたが、そんな良いものを受け入れらるほど今の自分ができていると思えなかった。
違う店でモーニングを食べ、その後ここでポテトを食べ終えたばかりだった。様々な食べ物に心身を頼る、そんな安堵めいた怠惰に全身が覆われている。内蔵も血液も適度に働き、十分な体液が体を満たしていた。全くの健康だ。少し眠くて、頭が働かない、この健康が心地よかった。
一方、自分の体を雨に打たせて風に煽られながら街を歩き続けることは、その安堵を一度破壊し、何か絶望めいたものを再構築することだった。そんな気力が今の自分にあるのだろうか。この、初めから諦めた旅の最後に、そんなことをする気力が。
雨から逃げた。大通りの地下にある漫画喫茶に滑り込んで、艶のあるシートの個室に体を横たわらせる。濡れた靴下を脱いで、薄い毛布に包まると、濡れたズボンや湿った上着を感じた。
瞼が腫れたように重いので、目を瞑る。しかし、この怠惰な幸福と共存する、強く身を苛む不安に遮られ、眠ることも文章を書くこともできなかった。息をするように漫画を三時間ほど読む。
こうした逃げは良くないと理解しながらも、そうすること以外体の使い方が分からなかった。地下の籠った空気に慣れて嫌気がさした頃、残り四巻ほどを残して店を出る。
地上へ出ると、先ほどまで燻んでいた街は青空の元、新しい光を湛えていた。見慣れてきた街が、また異なった様子をしている。私は手元にある傘をコンビニの傘おきに置いていくと、この街が一層好きになった。
雨は、街と私とを洗いざらい流して遠くへいった。そんな雨の残り香のような冷たい風が、街の隅々に澄み渡る。大通りに流れてきた強い風は、私の衣服の間を通り、履き続けていた服の苛みを風に乗せていった。そうやって今までのものたちが安寧を得て、疲れた体が軽くなる。
駅の高台から辺りを眺めると、街の様々なものを運んだ風は遠い山々まで続き、谷間に流れる雲海を動かしていた。私の魂がそこにある。その一点に、この旅が終着していくのを感じた。
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